学庵誕生物語

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塾長からご挨拶申し上げます。

こんにちは、“個別指導学庵” で塾長の中村義包(よしかね)と申します。…とはいえ講師は私以外、妻の中村恵子しかいません。夫婦2名だけの本当に小さな個人運営の塾ですし、外観はごく普通の戸建て住宅です。また、服装も普段着(Tシャツ・ジーパン姿)のままで、何から何まで全てがアットホームな学習塾です。場所は、東山台小学校の敷地に接した“T字型交差点”の真向かい側なので、ご近所の子どもさんやお母様ならば、一度は木製の『個別指導 学庵』の看板に目を止めていただいたかも知れませんね。そんな学庵ですが、開講してからもう16年目を越えました。年齢に例えるなら、「オギャー」と産声を上げてから、ちょうど高校生ぐらいですね。これまでを振り返ってみますと、長かったような気もするのですが、その反面、あっという間の 16年だった気もします…。そこで、改めて学庵という塾についての成り立ちや経緯をお話したいと思います。
中3理科『中和』の解説場面

生い立ちを語る…

今でこそ、塾生たちから「先生~!」とか「スゴ~ぃ♪」などと言われていますが、小中学校時代を振り返ってみると、格好の悪い失敗をあれこれ繰り返しました。また、要領の悪い方法でしか物事を理解できなかった子ども時代でしたね。自分で書いていて、思い出すのも嫌になってしまうほど恥ずかしい過去の持ち主だったようです。以下、覚えていることを書き添えておきます…。

【子ども時代~~健康面~~】

赤ん坊の頃はアレルギー性湿疹と気管支ぜんそくに苦しみ、通院はもちろん、長期の入退を繰り返すなど、大変な病弱児として育つ。7歳のとき、大学病院の精密検査により、(治療がいらない程度の非常に軽微な)“先天性心臓僧帽弁閉鎖不全症”と診断され、極度の激しいスポーツは自制するようにと、医者から指示を受ける。そのくせ、じっと静かに座っていられない子どもで、擦り傷や切り傷は耐えなかったようにも思う。やがて、小学校高学年までには、学校を病欠する回数もほとんど無くなり、一般の子どもとほぼ同じレベルの体力にまで元気になる。

【子ども時代~~勉強面~~】

「デキる子ども」とは口が裂けても言えないくらい、いつも劣等感に悩んでいた。小学校4、5年生頃から、自分の心の中でのモヤモヤ感は大きくなり始め、自分では解決出来ない葛藤となってコンプレックスに悩む毎日が続く。
もちろん、私立中学・高校の受験にチャレンジしようなど、考えた事すらない。
ただし、自分の興味の湧く分野に
ついて新しく知ることは楽しくて好きだった。
だから、自分の部屋には子ども向けに執筆された『宇宙のしくみ』・『人体のしくみ』・『歴史偉人伝』などの本の他にも、たわいも無い雑学?に関する本が何十冊と本棚に並べられていた。思い返せば、学校の成績には直接プラスにならない…、そんな知識にばかり目が向いてしまう、いわゆる
『オタク』な少年
である。
実際のところ、点数だけ見ればいわゆる“落ちこぼれ”というほど劣悪ではなかったかもしれない。しかし、全く目立つところなど無く、いつもクラスの中で「中の下」…いや、ほぼ確実にそれ以下だったに違いない。特に“丸暗記”する作業が苦手で、十分な納得感が得られないと、何事にも一歩も前へ進めない…、そんな不器用な生徒だった。だからといって、学校などで教えられた内容を、スンナリとその本質から理解出来るほどの
聡明さなど、悲しくなるくらいに持ち合わせていないから、辛いし苦しいのである。特に、算数の文章題の中でも『つるかめ算』のように“線分図”を書かないと正解が難しいものは、そもそも独力でそんな図が描けないし、それどころか完成された図を見ても、その意味をくみ取ることさえ出来ないのだ。

塾通いもしたがダメだった・・・

決して解けそうにない問題に対して、無理矢理向き合い、1人で悶々と試行錯誤していくうちに、勉強が嫌いになった。知的な好奇心、「面白そうだからもっと知りたいな、賢くなりたいな」…、そんな気持ちはいつも胸の中には
あるけれども、まるでお仕着せられるような形での勉強は、ものすごく苦手で、得意になれそうな自信もまるで無かった。
一応、塾通いも経験したが、そこは学校内容とはかけ離れた単元で、しかもかなりハイレベルな問題集を用いる集団授業だったため、かなり早い段階でリタイアする羽目となる。
(※なにせ昭和の時代には、勉強が苦手な生徒の補習を請け負うような個別指導塾が一般に存在しなかった。)

転機

中学1年の後半ごろ、1つの転機が訪れた。勉強が苦手な私に、両親が見かねて家庭教師を付けてくれることになったのだ。その先生は当時大学生だったが、学校で習う英語や数学の弱点補強はもちろん、非常に難解なアインシュタインの一般相対性理論?など話についても、私の好奇心と理解度に上手く呼吸を合わせた上で、とても分かり易く、おもしろく教えて下さった事は、今でもよく覚えている。いや…、本当はその先生の説明の半分以下ぐらいしか、
当時の私の頭では理解・吸収が出来ていなかったかもしれない…。だが、私は何度も「あ~!そうか!そんな風に考えたら分かるんや♪」と心の中で感激した記憶だけは何十年たっても忘れない。今思い返せば、人見知りが激しく
内向的な性格だった私は、表面的には変にカッコを付けていたのだろう…、あまり気軽に何でも相談したり、軽口を叩ける少年ではなかったので、お礼の言葉もろくに言えなかったことを今後悔している…。しかし、間違い無くこのときの経験が、僕も大人になったら、誰かに何かを分かり易く、おもしろく説明できるような仕事をしたいな。」と思うきっかけになった。

家庭教師のアルバイト時代

テストの点数が全く振るわなかった小・中学生時代…、地元の公立高校に進学してからもますますの悪戦苦闘が続いたが、(相対的にだが)得意科目である国語・日本史・英語の3科目受験の出来る前提条件の中からいくつかの大学の門を叩いた結果、何とか関西大学に合格することができた。
大学生時代は、主に中学生を対象とした家庭教師のアルバイトを複数の生徒を並行していた。生徒とのコミュニケーションや「わかりやすく、おもしろい」授業のノウハウの原型は、この時代に培われたように思う。特に力を入れて教えた中学の男子生徒は、 初めは英語の偏差値が47だったのが、高校受験直前には58にまで上がったことが 印象に残っており、『説明すること』,『授業すること』への自信を深めていった。

会社員時代

「誰かに何かを説明する仕事」…と一口に言っても、それが必ずしも学校の先生とは限らない。だが、自分なりに「知っている事をできるだけ分かり易く説明する」という1点だけは、誰にも負けない自信?があった。
(今思えば、それは単なる思い上がりだったようだが…)
そんなわけで社会人になってからもしばらくの間、『自分探しの旅』を続けることになる。まず一般の自動車関係の企業に就職し、ごく普通のサラリーマンとして経理課で働くが、後に塾業界に転職し、教育産業に身を置く。

こんな感じの職務内容だったかな・・・

■家庭教師派遣業(大学生の人材確保、生徒の勧誘)
■個別指導塾の1教室の運営管理
・個別指導形態での授業
・塾広告(チラシ)のデザイン企画、生徒募集全般
・大学生塾講師への研修
・大学生塾講師の出退勤管理
・教材発注、管理
・保護者様との面談
・教室の収入、支出に関する経理業務
■集団授業形態での授業
■学習塾経営のノウハウを持たない、フランチャイズ塾加盟者に対する研修と相談

わき起こる疑問

そうして数年間、1人の会社員として日々業務に没頭していたが、常に心に大きく引っかかる疑念があった。それは、どこの企業も教室も多かれ少なかれ、営業利益を確保しなければ営業拠点を失いかねないし、ビジネスモデルが崩壊するおそれがある。それはある意味で仕方ないかもしれないけれど、生徒への学習効果を少し軽んじ過ぎているのではないか?・・・という気持ちである。
【具体例】
大学生講師が「教える自信が無い」と辞退している科目や、高校科目など負担の大きい授業を半ば強引に任せる。
形式上は「講師1:生徒2」のスタイルだからOKだろ?…と言わんがばかりの無茶な組み合わせを平気で時間割に組み込もうとする。(小3算数&中3公民など)
正規の勤務時間以外の雑用(学習報告書作成やミーティング)、すなわち無賃残業が、半ば当たり前の状態。
(※これはTVの報道番組で取り上げられた事もある。)
「1:4」形式の個別指導コースであっても、「1:2」形式と比べて学習効果に遜色が無いかのごとく、生徒募集時に保護者説明を行う。

『サラリーマンの雇われ教室長』のままでは・・・

・・・という疑念である。最前線で生徒に向き合う講師…、それは正社員であろうとアルバイト講師や非常勤講師に関係なく、誰もが親身になって生徒の成績を上げようと頑張っているのは確かだ。しかし多くの経営幹部達は、現場講師が劣悪な環境に置かれても、一部の勉強が苦手な生徒が十分なクオリティの授業が受けられなくても、各支店教室の営業成績を上げるためには、心を鬼にしてでも、「綺麗事はそれ以上言うな!」という理屈が半ば大手を振っている事も、悲しいけれど私が見た現実だった。もちろん、これは私個人の感想に過ぎないし、その認識が絶対に正しいと主張するつもりもなかった。また、20年前後も昔と今では、業界全体や職場の雰囲気も変わっているのかもしれない・・・。ただ、「自分が思う理想の学習塾経営」とはあまりにもかけ離れていた仕事の日々の中で、サラリーマンを続ける事に、いよいよ限界を感じていたように思う。

自分だけの学習塾を立ち上げるぞ!

「サラリーマン生活に決別し、自分独自の理想的な個別指導塾を立ち上げたい!」…遂にそう決断する日が来た。
【塾名】:がくあん 学庵 「小さな学びの家」
【コンセプト】
■外見はごく普通の家だけど、中身は本格的! 
■大手企業のチェーン塾じゃ絶対に真似の出来ない塾。
■アットホームな雰囲気と情熱、“本質を見失わない“。
■生徒を納得させる指導技術が絶対条件、
中身で勝負!
■丁寧で分かり易く、地域で『ONLY ONE』の学習空間。
「そうなればイイな」、純粋にそう考えての船出だった。
【開塾当初】
…というわけで、今から16年ほど前に、東山台のマンションの1室から、妻の恵子講師と2人だけで“個別指導 学庵”と名付けた塾を立ち上げた。だが看板もなく、まだ十分には教室設備や教材なども揃ってはいなかった。知名度も何も全くのゼロからの立ち上げで、正直なところ、「生徒からの問い合わせがないままだったら、どこかに再就職しなくちゃな?」と覚悟を決めていた。夫婦(講師2名)ともに、取り立ててて自慢?出来るような高学歴を持ち合わせている訳でもなく、勉強に関する資格といっても、中学生時代に受けた『英語検定4級』と、会社員時代に業務命令で受験しマグレ?で取った『漢字検定2級』以外は何もない…。そういう意味では、『裸一貫』で、よくも
まぁ脱サラなんてしたものだと、自問自答した時もあった。妻の恵子講師も『小学校教員課程』を経ているものの、実際に学校の教壇に立ったわけではなく、
以前の仕事は確かに“講師ではあったが、それも全く“畑違いな”音楽関係の教室だった。

小さな舟の『がくあん丸』で、大きな海をどこまでも・・・

ありがたいことに、開設から間もなく数名の塾生が集まった。何とか順調な滑り出しを切ったが、実は開講当初、
少し理科と社会の地理に苦手意識を抱いていた。不思議なもので、35歳を過ぎた頃に学生時代に戻ったつもりでもう一度教科書や参考書を読み返してみると、何だかスイスイと理解出来てしまったことに、自分でも少々驚いてしまった。きっと自分でも気づかないうちに、1つの形にまとまらずのままでいた雑多な知識が、十数年たってようやく科目知識の習得や整理に役立つと、改めて知ることが出来て感動したものだ。そしてその時、ハッと気づいたのだ。

■たとえ何歳からでも、学ぶ気持ちさえあればドンドン知識は増えていく。
■毎日それを使う気持ちを大切にすれば、“呼吸する”のと同じくらい当たり前に使いこなせるようになってくる。
■ただ知っている事に満足せずに、次々に派生して湧いてくる疑問や興味こそが、理解に“深み”を与える。
■「覚え込もうとする前に、何故そうなるのか考える」ことが王道。
■各科目を切り離さずに、いつも関連づけて学ぶ習慣こそが最強の学習法。
そうした間も、妻の恵子講師は自分なりにコツコツと地道に、丹念に中学数学を総復習し続け、やがて公立高校の
入試問題レベルであればさほど苦もなく正解できる域にまで、教務力を磨いていた。その後も、アルバイト講師を置かず、全力投球の毎日を重ねてきた。おかげさまで、最初の年でどうにか十分に生計が成り立つくらいには、入塾者も集まった。さらに、「おもしろくて分かり易い!、わかる実感が持てるから、結果的に成績も上がる!」と、徐々にに評判も広がり、毎年50~60名の生徒様に通っていただける今、地域の皆様から「学庵って結構イイね♪」と言ってもらえるまでになった。さらに10年ほど前に、現在の東山台小学校の真正面の場所に自宅と教室を兼ねた戸建て住宅に引っ越す運びになった。確かに『見かけはごく普通の家』である。ただし部屋の間取りは、設計段階から、「個別指導の特徴を最大限に活かせるように、生徒にとって快適な教室空間」となるように精一杯気を配った。
そうして今現在、忙しいながらも妻の恵子講師と2人で充実した日々を送っている。

~完~
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